私は、「自分がやりたいこと」がよく分かりませんでした。
大抵いつも考えていたのは、
「ここではこうするべき。」
「頼まれたからやらなきゃ。」
「困っている人がいるから助けよう。」
そんなことばかり。
自分がどうしたいのかよりも、周りが何を求めているかを基準に行動していました。
だから、人から頼まれたら断れませんでした。
困っている人を見つけると、「こうしてあげたらいいだろうな」と、相手が頼む前に動いていました。
それが優しさだと思っていたからです。
でも、ある時気づきました。
私が先回りしてしまうことで、相手が助けを求める機会や、自分で行動して得られる経験まで奪ってしまっていたこと。
そして何より、自分自身のやるべきことを後回しにしていたことです。
聖書には、こういう聖句があります。
「求めなさい。そうすれば与えられるであろう。探せ、そうすれば、見出すであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」
(マタイによる福音書7章7節)
以前の私は、この御言葉を「神様は、求めなければ何も与えてくださらない」という意味で受け取り、神様って、少し冷たいな、と思っていました。
でも今は、求めるという主体的な行動そのものに、大切な意味があるのだと思っています。
子育てをする中でも、自分に何が必要なのかを知り、それを誰かに「助けてほしい」と伝えることは、生きていく上で本当に大切な力です。
だから最近は、誰かを助けたいと思った時、一呼吸置くようになりました。
本当に今、私が動くべきだろうか。
相手が自分でできることではないだろうか。
私は喜んでできるだろうか。
そう考えるようになったのです。
以前の私は、やりたいからではなく、ここではこうするべきだから、と動いていました。
だから、自分が何をしたいのか分からなかったのです。
でも今は少しずつ変わってきました。
基本的には、誰にでも親切でいたい。
けれど、自分から手を出しすぎない。
求められた時も、自分の状況や家族との時間を考えた上で、引き受けるかどうかを決める。
まずは自分を大切にし、家族を大切にする。
その土台があって、心に余裕と喜びがある時には、助けを求める誰かのために時間や力を使いたい、と考えるようになりました。
最初は、「私は冷たい人になってしまったのではないか」と思いました。
でも今は、自分から選んで愛することを学び始めたのだと思っています。
子育てに翻弄され、「自分がやりたいこと」が分からなかった私。
でも今は少しずつ、「私はどうしたい?」と、心を据えて自分に問いかけられる時間が持てるようになりました。
その問いの先に、本当の自分の人生があるような気がしています。
誰かの期待に応える人生ではなく、自分で選び、自分の意思で愛する人生を送りたい。
そんなことを思いながら、今日も一日を過ごしてみます。














